はてな (飲用)

律令天皇制        /上山春平@1976 

 私は、数年来、国家の問題を、日本の歴史に即しながら考えてみているのだが、その過程で次第に明らかになってきた事実がある。それは、とくにとりたてて言うほどのことではないが、要するに、日本の国家の歴史は、天皇制の歴史としてとらえられる点を、大きな特色としている、ということである。

 ただし、このばあい、「天皇制」という用語が、昭和の初期あたりに、近代の絶対君主制を意味する「カイザートゥム」ないし「ツァーリズム」の訳語として登場したころのの狭い意味においてではなく、「天皇を頂点とした国家体制」といった広い意味に用いられていることをことわっておかねばなるまい。

 こうした広い意味での天皇制の歴史は、少なくとも五世紀あたりまではさかのぼることができるのではないかと思われるのだが、その歴史は、西暦の700年前後を目安として、大きく2つの段階に分けることができる。つまり、成文法の体系を前提とする天皇制と、それ以前の天皇制とに。

 ところで、八世紀以降における法体系のなかの天皇制は、さらに、中国渡来の律令を前提とする天皇制の時代と、ヨーロッパ渡来の憲法を前提とする天皇制の時代とに分けることができる。私は、かりに、前の時代を「律令天皇制」、後の時代を「憲法天皇制」と呼んでおきたいと思う。

 律令天皇制といえば、律令国家の時期を主として奈良朝あたりに限定して考えがちな一般の常識にしたがうならば、八世紀末か、せいぜい九世紀半ばの摂関制の成立あたりまで、といったぐあいに考えられるかもしれないが、私が律令天皇制の時代というのは、律令が国家公法としての存在を持続した期間を指しており、これは、八世紀前後から十九世紀後半の明治維新に及んでいるのである。

 つまり、律令天皇制は、大宝律令において基本的な骨組を確立したのであるが、これに手直しを加えた養老律令は、明治維新に至るまで、千年あまりのあいだ、国家公法として存続したのであった。

 たしかに存続はしていたかもしれないが、は泣くから形骸化し尽くしていたのではないか、という反論はもちろん予想される。それは、全くその通りである。しかし、律令明治維新にいたるまで国家公法として命脈を保っていたという事実をしっかりと確認しておかなければ、明治維新の変革のロジックを正確にとらえることはできないのではないかと思う。

 千年あまりに及ぶ律令天皇制の歴史をふりかえってみると、奈良朝におけるはじめの一世紀ばかりのあいだは、お手本となった唐の律令制にかなり近い姿をとっていたのだが、平安朝においては、摂関制という独自な日本型の特色を示し、鎌倉時代以降の武家政権のもとでは、律令政府の中枢がなお京都に存続をゆるされながら、その空洞化は一段と徹底された。

 こうした律令天皇制の成り行きをよくよく眺めてみると、同じく律令制のたてまえを取りながら、中国の律令制とはいかに性格を異にしているかという点に、改めて注目せざるをえない。

 日本において、唐の律令を手本とした養老律令がずっと据えおかれている間に、中国においては、唐・宋・元・明・清といったぐあいに王朝の交替があり、ほぼそのたびに律令ないしその施行規則の改革が行われたのであるが、その間、一貫して、国家統治の実権は専制君主としての皇帝の手に掌握され、律令体制が日本のように形骸化されることはなく、いわんや、律令制のもとで、封建君主といもいうべき性格をもつもの(将軍)が実権をにぎるなどということは全く考え及ばぬことであった。

 私は、日本律令制の特色を考えるばあい、たんに養老律令ないし大宝律令と、そのお手本となった唐の律令とを文献の上で比較するだけではなく、上のような日中両国の律令体制の展開の過程を比較することによって、両国の政治的体質のちがいを巨視的にとらえてみる必要があるのではないかと思う。このような考察は、日本の明治維新以降と中国の辛亥革命以降における両国政治体制の比較研究にたいしても重要な示唆を与え得るに相違なく、今後の日中相互の理解のために貢献する処も少なくあるまい。

 ともあれ、律令天皇制は、その出発点において、お手本となった中国の官僚制的な君主制に似せた形をとっていたのだが、次第に変貌をとげて、ついには、中世ヨーロッパの封建制に近い姿をとるに至った。こうした大きな振幅は、憲法天皇制のもとにおいてもいとめられる。つまり、その出発点においては、お手本となった近代ヨーロッパの君主制に似通う姿をしていたのが、第二次大戦を転機として、実質的には共和制と変らぬ姿に変貌をとげているからである。

 このように、天皇制というのは、官僚制から封建制まで、もしくは君主制から共和制までの大きな振幅を示しており、さらに言うならば、中国風の律令体制からヨーロッパ風の憲法体制に及ぶ巨大な変域を包み込んでいる。

 こうした驚くべき柔軟性ないし変貌可能性は、天皇制を支えてきた日本の政治的体質、さらにはその背景となっている日本の文化的特質に根ざしているにちがいないが、私としては、天皇制が、律令天皇制として、はじめて法体系のなかに位置づけられたときに、将来の大幅な変貌を可能にするような方向が、唐の律令の修正という形で用意されていた点に注目したい。

 修正にもいろいろあるが、基本的なデザインの変更にかかわる修正は、日中両国の律令の文面をにらんでいるだけでは、必ずしも充分にとらえることはできない。たとえば、中国側が、君主の名称として、秦の始皇帝以来の「皇帝」を援用するのにたいして、日本側が「天皇」を採用することなどは、日中両体制の根本的な相違にかかわる重大なポイントではないかと思われるのだが、律令の文面のうえでは、儀政令に、君主の故障として、中国側(開元令)では、「皇帝・天子・陛下……」とあるのにたいして、日本側(養老令)では、「天子・天皇・皇帝・陛下……」とあり、日本側に「天皇」という呼称が加わっているにすぎない。ところが、『史記』・『漢書』等の中国の正史と『日本書紀』等の日本の正史とを比較してみると、中国側が、秦の始皇帝以降、歴代の君主とを比較してみると、中国側が、秦の始皇帝以降、歴代の君主を「皇帝」と呼んでいるのにたいして、日本側は、神武以降、歴代の君主を「天皇」と呼んでいる。つまり、「皇帝」と「天皇」という両国君主の呼称の相違は、正史を参照しなければ明瞭にならないのである。

 ここでは「皇帝」と「天皇」の呼称の由来と両者の性格の相違についてくわしくのべているいとまははないが、私の考察の結論のみを要約しておくならば、中国の皇帝が、天帝によって君主としての資格の当否を判定されるたてまえになっているのにたいして、日本の天皇は、天神(あまつかみ)の化身としての「現神(あまつかみ)」(宣命には「現神」とあるが、公式令の詔書式には「明神」とある)というたてまえとなっている。と言うことができる。

 中国における天帝と皇帝との関係をめぐる「革命(天帝の命令を革める)の哲学」は、『書経』等の儒教経典に示されており、天皇を「現神」とみなすことによって中国式の易姓革命の余地をなくしてしまう「万世一系の哲学」は、『日本書紀』(および『古事記』)の神代巻に見いだされる。

 したがって、中国の律令が、律令制作にはるかに先行する『書経』等の儒教経典をいわばイデオロギー的な背景としているのにたいして、日本の律令は、律令とほぼ同じところに作られた記紀イデオロギー的な背景としてしている、と言うことができる。

 さて、天皇と皇帝をそれぞれ頂点に据える日中律令官制の相違点は、中国の三省(中書省門下省尚書省)を日本では太政官一本にまとめた点に集約されていると思われるのだが、天皇の大政を統一的に代行する機能を有する太政官の制度は、摂関制の直接の前提となり、やがては、律令制の枠内で、幕府による統治権の代行を可能とするに至った。

 この点にかんしても、三省制と太政官制の相違を律令の文面でたしかめるだけでは不十分であり、制度の運用の実態と、その背後にある思想について、政治史的な考察を加えることが必要であろう。

 なお、日本の律令官制の大きな特色として、太政官と並んで神祇官が設けられている点が注目されるが、神祇官というのは、天皇を「現神」とみなすイデオロギーに対応する制度として解することができよう。つまり、天照大神を祭る皇太神宮を頂点とする神祇体制は、記紀神代巻の制度的投映であり、「現神」(天照大神の化身)としての天皇を頂点とする政治体制のイデオロギー的支柱の役割を果すものと解されるのである。

 

-------------------------

(転記者の漠然としたコメント)

この器は役に立つかな。

どのように?

この概念で何をしますか。

 (それを見ている/見られてきた)器は、あるのかな。 今もなお。

このタームで眺めた歴史の方が長いとはおもうけども、

何か人種としてそこへ集る感じは、気色わるくはある。 (人種→ここでは傾向という意味で使用) 

必ずしも上品な人間がその器へ集まるわけではないのである。(むしろ逆であるとさえ言える。)

みんなは器をどうしているのかな。

現在の憲法が制定されて、よかったと思うことのひとつです。

この器を守りたいと感じています。(我々の文化の器になってくださる) 

道徳とかで強化してガチガチの世の中になりたくないものだな。

伝統であるとかも世界のこと取り入れ様がなければ、死に絶えていると思う。